高校時代になると ちまたでは ヤンキー が流行るようになり、私の学校もその中のひとつでした
今でも、高校で何を勉強したのかあまり覚えていないぐらい遊んでいました。
3年になり、進学・就職などの話になり これといって夢も無く ただ料理を作ることくらいしか
思い当たることも無く、そのまま大阪の調理師専門学校に通うことにしました。
漁師になることも考えましたが、当時 親父から「これから漁師は不況になる」といって反対されました。
今ではそれでよかったと思っています。
1年の専門学校を経て、社会へ まずは お菓子の世界へ飛び込みました、きらびやかなケーキに憧れ
あんな 洋菓子を作りたいと 西宮の長崎屋に就職が決まり 意を決して飛び込みました。
そこで思いもよらない事態 なんと カステラを3年焼いてくれとのこと
そこのカステラは結構有名でしたが それを焼いているところがとんでもなかったんです。
工場の暗い裸電球の下で もくもくと愛想もくそも無い 人たちが カステラを焼いていました。
こんな暗い仕事は、やってられん と 1か月でやめてしまいました。
ここから、私の料理人人生が始まります。
その後、洋食の世界に入り、レストランを回りました、当時は司厨師協会というものがあり、全国の洋食系料理人が
会員で、各地方に支部があり、私は大阪支部に所属していました。
コンクール・大会・催し物などが開催されていました。「料理は味だろ」と考えていた私は、そういった会合に興味も無く、
ただ技術と味を求め、いろいろ回っていました、パルコにあった「レストラン カーサ」・堺にあった「パセオ41」など
洋食系を経て、ついに 「トップになるんならフランス料理や」と考えるようになり、つてを頼り、大阪のフランス料理店に
入り修行することを目指します。社団法人「クラブ関西」の料理長佐藤さんのつてで、やっとポンドシェルに入ることができました。
このときのエピソードが今でも語り草です。面接でフランス人シェフのメディックさんと面談のとき、ひと通りの面談が終わり、
最後に聞かれたことが「今日はここまで、何できましたか?」「バイクです」と私。
「ほう、君はバイクが好きなのか」「はい」「どんなバイク?」「1000ccの大きなバイクです」
「へ~それは早いね」「はい」「じゃ、仕事も速いですね」「はい」「じゃ、合格です、すぐに来てください」
うそのようなほんとの話、当時ポンドシェルは実務経験があり、フランス語が多少分かる人が入店できる条件でした、なので
ほんとのところ、私も無理なんじゃないかと思ってました。が、ごらんの状況ではれて入店することが出来ました。
あの時、メディックさんがバイクも好きで、仕事を早くできる人を求めていなければ、今の私は違う道を歩んでいたかもしれません。
0コメント